努力が報われない環境では人は努力しなくなる

努力が報われない


もし自分の首に鋼鉄の鎖があり、
杭につながっていて、
3mしか動けない。

でも、遠くへ行きたい。


みなさんなら暴れますか?
最初のうちは暴れても、
数時間も絶たないうちに諦めますよね?


タイで生活していると
日本では考えないことを考えるきっかけがあります。

裕福層が固定している。

これはタイでとても強く感じることです。


裕福層は裕福層でつながって、
金銭だけではなく、権力にもつながって、
もう誰もどうしようも無い感じがします。


すると何が起こるか。

国民の中に無力感というか、
閉塞感というか、
もう無理でしょ?
という気持ちがくすぶってしまうんです。


道徳的に間違っていることがニュースで流れても、
その加害者が裕福層だと、
どこかで諦めのような思いが湧いてきます。


自分もイミグレなどに行くと、
理不尽な扱いを受けても、
抵抗はできません。

ビザあげないよと言われたら終わりだからです。


自分ではどうしようも無い状況の中では、
人はどんどん努力をしなくなる。

そのような傾向があるのかなって思うのです。
アメリカン・ドリームじゃないですが、
何か努力した人は正当に報われる状況じゃないと
人は頑張れないんじゃないかな。


スラムの人たちが、スラムで暮らし続けるのは、
本人たちが努力をしないという側面もあるんだろうけど、
努力したって何も変わらないでしょ?
どう変わるっていうんだよ!
といった、閉塞感のようなものが蔓延しているからなのかもしれません。


人は努力が報われない環境にいると、
努力しなくなる。


逆を言えば、
努力が報われる環境をつくってあげたら、
努力するようになる。


TJ☆LifeStyleラボは個人の生き方に焦点をあてて書いています。

個人に結びつけるなら、
自分の努力が報われる仕組みをつくらないと、
自分だって努力できないということです。


結婚数十年の夫婦で夫がだらしないかっこうをしているとします。

かっこいい格好をしたら報われることがあるのか?

そこが明らかでないなら、
やっぱだらっとした格好になってしまうのかなって思うんです。

お父さんかっこいい。

そんな一言であってもインセンティブにはなるのかな?


努力が報われる仕組みをつくる。
シンプルなことですが、
大切なことだって思います。

人間が生きる意味とは何か?



人間には生きる意味があるのか?


そう悩む人もいるらしいです。


私は「生きる意味は自分で考えてよい」
と思っています。
いや、むしろ「自分で考えなくてはいけない」くらいの想いがあります。
宗教に決めてもらおうとは全く思っていません。


だから、
「子供たちのため」でもあるし、
「自分が楽しむため」でもあるし、
「世の中をよくするため」でもあるし、
そうやっていくつ意味を作ってもよいと考えています。


そこを真面目に1つに絞らないといけないと思うから
悩みが生じてくるんだと思うんです。


で、寂しいことを言えば、
生きる意味というのは生物学的には
種の保存なんでしょうね。


これは不変だと思います。


ただ、種の保存を身体的、精神的に無理な人もいます。


では生きる意味はないのか?
と言ったらそうでは無いです。


人間は生きる意味を自分で見つけていいんだから、
種の保存以外の生きる意味があってもいいんです。


でも、種の保存ってのは、
よくよく考えてみると、子供を残すだけではなくて、
人間の場合は文化的なものでもOKなわけです。


もちろん残さなくても、
今、自分のやっている行動が
他人に少しでも良い影響を与えているなら、
もうそれだけで生きる意味ってあると思うんです。


動物と人間の違いは「考える」ことができること。


だから、種の保存という原点を越えて、
自分でいろいろな意味を見つけてもいい。


だから生きるって面白いんだと思います。


この生きる意味を奪われてしまったり、
他人からコントロールされるとき、
人は本当に生きがいを失ってしまうんでしょう。



朝が忙しいという人へのシンプルな解決方法



朝が忙しいという声は
人生の不変の声のようで、
どの人種、どの世代でも聞こえてくるものです。


私もサラリーマン時代は忙しい朝を過ごしていました。
自営業になり、その忙しい朝からは解放されました。


振り返ってみると、
どうしてそもそも朝があんなに忙しかったのかというと、
単純な理由がありました。


「起きる時間がギリギリ」


たったこれだけです。


朝起きる時間を出発から逆算で見積もって、
ギリギリを攻めていくから忙しくなるんです。


自営業になってその忙しさから解放されたのは、
出発までの時間に余裕ができたからです。


そこで起きる時間をギリギリにしたかというと、
子供たちがいるので、
起きる時間は固定でした。


だから慌てる朝ではなくなったのです。


ということは、
眠たいという理由もあるんでしょうが、
ストレスの方が体にはダメージがあると思うので、
今より15分起きる時間を早くしてみる。


たったそれだけで、
余裕のある朝を迎えられるきっかけになるのではないでしょうか?


15分で無理なら20分。


出発時間からギリギリを見積もるのではなく、
余裕ある朝になるような時間をとるために
起床時間を見積もる。


これが忙しい朝から解放されるための
大切なことだって思うのです。

今は残りの人生の最年少!



新しく何かをスタートしようとするとき、
こんな言葉聞いたことがありませんか?

「もうこんな歳だし。。。無理だよ」


もう人生に残されている時間も少ないし、
体力、能力的にも歳をとって無理だということです。
もっともらしい理由に聞こえます。


ただ、そんなことを言ってしまったら、
そこで人生はもう面白味が激減してしまいます。

歳を理由にしてやらない。
歳を気にせずやる。

どちらが刺激的で楽しい人生になりそうか。


もちろん、歳を気にせずやる方が
楽しい人生になりそうですよね。


失敗したら大変じゃないかって声もありそうですが、
失敗するかしないかなんて、
生きていたら、当たり前の二択だと思いますよ。


そんなことを言っていたら、
車に乗ることだって超リスクです。
事故するか、しないかの二択ですし。


だから失敗というのはひとまず置いておいて、
歳をとって何か新しいことにチャレンジするのは
人生を面白くしてくれるということは
間違いないと思います。


ただ、その決意をするときに
どうしても歳を理由にしてしまう人には
自分はこう考えているというアドバイスのようなものを
お伝えできるかなって思います。


今が自分の人生の中で一番若い。


今、この瞬間が残りの人生の中で最年少ですw


当たり前ですが、
とっても大切な考え方かなって思います。

最年少って考えた方が
新しいことにチャレンジしやすい気がしませんか?


私はできる限りそのように考えるようにしています。
最年少らしくフレッシュにいきましょう。

他人と比べて劣等感をもつ必要はない



変なところで人と比べて落ち込んでいる人がいます。


例えば、ある男の子がクラスで好きな女の子がいたとします。
で、そのクラスには、自分よりもっとかっこいい男の子がいたとします。

すると、あいつに比べたら自分なんてダサいんだから、
あの子に告白するなんて恥ずかしくてできないと思う。


でも、よくよく考えてみたら、
自分よりかっこいい男の子がいることと、
自分が好きな子に告白することって全くの別問題ですよね。


その全くの別問題を関係あることのように思ってしまって、
勝手に自信を無くして自分の行動を制限してしまっている。


告白して成功するか、失敗するかなんて、
その自分より優れた男の子とは全く関係無いこと。


でも、身近にそんな例があると、
自分で勝手に他人と比べて落ち込んでいる人がいます。


今はネット社会で、ツイッターやらフェイスブックで
知らなくて良い情報がたくさん入ってきます。

だから、隣の芝生は青く見えて、
変に落ち込んでしまう人もいるようです。


他人が素敵な暮らしをすることと、
自分の今の暮らしは全く関係なくて、
もし良い暮らしがしたいのであれば、
比較して落ち込むのではなく、
そのために何をしたら良いかを冷静に考えたらいい
んです。


子育てだって同じで、
他人の子と自分の子を比較する必要は無いです。
指標にする程度でいいと思いますよ。


他人と比べて劣等感をもつのではなく、
もっと事実を冷静に見つめることが大切
かなって思います。

自分の頭で考える

テレビを見ていると
ある事件などがあったときに
街角インタビューをしている場面が出てきます。

そのときの意見を聞いていると、
本当にそう思うの?
ということがよくあります。

例えば、
消費税がアップすることについて
どう思いますか?
と聞かれたとします。

消費税が上がったら、
消費欲が下がって、景気が悪くなるだろうから困ると思うなんて、
サラリーマンが語っている場面がありました。

本当?

消費欲ってそこまで下がるの?
今まで消費税は何回か上がってきたけど、
消費欲が下がった?
結局、慣れてきていつも通りになっていないか?

消費欲が下がると景気が悪くなる?
今は景気が良いの?

消費税を上げるのはなんのため?
消費税を上げることでどんなメリットがあるの?

考えることは芋づる式に出てきます。

そのようなことを検討した上で、
はじめて賛成なのか、反対なのか
という議論ができるのかなって思います。

簡単なインタビューなので、
そこまで考える必要は無いでしょうけど、
消費税なんて自分に直接関係していることですら、
困る、困らないレベルでしか考えていないのだとしたら、
それは政治家に正解と思われる道を考えてもらうしかないです。

それってかつて悪政で行われてきたことで、
国民はできる限り考えないで、
ただ決まりを守って生産活動に従事してくれていたらいいというものと似ている気がしています。

一人ひとりが考える力を高める。
そのためには、適当に発言する前に、
自分の頭で本当にそうなの?
と疑ってみる。

そんなことが生きる上では大切になってくるのかなって思うんです。

個より組織が優先される社会



Facebookで知人の投稿を見ていると
娘が盗撮されていて、
そのことを駅員さんたちに話しても
暖簾に腕押しのような対応だったとか。


細かい経緯はわからないし、
知人側から切り取った情報しか接していないから
この事例だけでの判断は難しいんだけど、
タイトルにも書いた通りのことって多くある。

個より組織が優先される社会

自分の経験に照らし合わせても。


タイから日本に帰国したとき、
たいてい駅ビルを通り抜けることがあるんだけど、
アパレル店員の声が気になって仕方がない。


「いらっしゃいまぁせぇー↑」


と普通ではありえないトーンの声が聞こえてくる。


日本に住んでいたらそこまで気にならないことだろうけど、
タイにずっと住んでいると
この声にすごく違和感がある。


駅員さんの声もそう。


聞きやすい声にしようという意図があるのかもしれないけど、
普通じゃないでしょ?って思う。


テレビに出ている地下アイドルとかも同じかな。
アイドルというくくりになると、
どうしてもあんな声になってしまうのだろうか?
20歳を越えてもあんな声なんて普通ではないですよね。


こんな感じで、日本っていう国は特に
自分が所属する団体に
個性無くして染まることが当たり前になっていることが
あるんじゃないかな。


一番先に書いた駅員さんだって、
帽子と制服を抜いだ状態で
自分の娘だったり、知人が被害にあっていたら、
行動はかなり変わっていたはず。


でも、駅員というJRに所属している立場があって、
その立場から相手を「客」という一般化してみているから、
ルールから外れた対応は絶対にできない
ロボットのような状態になってしまっているのかな。


駅伝で骨折して跪いたままで
150mを四つん這いで進んだ人を
誰も助けられないようなものですよね。


人間としての判断より組織のルールが優先されるから。


これが間違った方向に進んだのが
戦前だと思います。

憲兵だという自分の所属した名前があれば、
同じ国民でも「非国民」なんてくくりで一般化して、
かなりひどいこともできてしまうんだから。

友達や家族にだったらやらないようなことでも
団体に所属してしまうとやってしまえる怖さです。


だいぶ最近では個性的な人が増えてはいるけど、
日本という国は教育のお陰なのか、
まだまだ個より組織が優先される社会だなと感じます。


自分だけでも
そんなしがらみを捨てて、
人間である自分の判断を大切に生きていきたいなって思います。


本当にやりたいことは何か?



何か他人から役割を与えられていると
生きがいを感じる人は多くいる。


学校でいえば係活動だろう。


それが自分がやりたいことか、
やりたくないことかは別として、
何か教室内で役割があって、
そのことが自分の存在価値につながる
なんてまことしやかに言われていたりする。


で、そんな役割を果たすことに喜びを見出し過ぎてしまうと、
人は自分が本当にやりたいことではなくても
何かしらの役割を与えられることで、
なんとなく生きがいを感じてしまうもの。


会社に所属すると、自分がやりたくない仕事を多く割り当てられる。
で、その役割に何かしらの意義があって、
その意義は否定しづらいものがある。


どんな仕事だって突き詰めていたら、
他人の役に立っているわけだから、
そこを否定するわけにはいかないのだ。


例えば、会社の前の掃き掃除を命令されたとします。
その仕事は自分がやりたくはないことです。
でも、会社からはこう言われます。

道を歩く地域の人々が快適な気持ちで生活できる素晴らしいことだ。
ましてや地域社会に貢献することで
わが社のイメージもアップする大切なことだと。


そういわれてしまえば意義については否定できない。
しかも掃除について褒められてしまったりしたら、
どうも何かしらの喜びを感じてしまい、
本人も続けることになる。


でも、よくよく考えてみたら、
それは自分しかできない仕事だろうか?
本当に自分がやりたかった仕事だろうか?

確かに誰かがやらなければならない仕事なんだろうけど、
掃除が大好きな適職の人は他にいるかもしれません。


いる、いないは会社が考えるべきことで、
本当に自分がやりたいことはこれなのか?
と考えることすらできずに
毎日が過ぎていってしまうことがありえます。


そうしているうちに5年、10年と時は経ち、
もう戻れないところまで進んでしまうのです。


人生は1度しかないから、
そうやって人生折り返しを過ぎてしまうと
もう戻れない。

だったら今いるところで前向きな意義を見出すしかない。
そうやって人生をやり過ごすことになります。


でも、本当に人生は1回しかないと考えたとき、
今やっていることで良いのだろうか?
と本気で考えてみることも大切なことだって思うんです。


人生に遅すぎるということはありません。
例えば自分は41歳。
何かをはじめるには遅いのか?


いや、60歳の人からみたら、
41歳は若いと言われます。


他人から与えられた役割を果たすことも大切ではありますが、
それは会社の社長がやりたいことの一部であって、
自分のやりたいこととは違うかもしれません。


自分は本当に何をやりたいのか?
そこを見つめることが
幸せな生き方につながると考えています。


【社員自殺問題】命令に盲目的に従順になってしまうマインドを破るために


何か登山隊があって、
あなたが隊長だったとします。


隊で山を登っているとき、
目の前に進むべき道が決まっているなら、
ただその道を何も考えずに突き進むだけでいいですよね。


余計なことを考えるだけムダで、
考えている時間があるなら、
どんどん前に進めばいいだけです。


無駄口をたたいたり、
景色に見とれて足を止める隊員は邪魔で、
できるならロボットのように
よく登ってくれたらいいわけです。


そんな状況で登山している隊員は
登山が面白いでしょうか?


かなりつまらないですよね。
自分で道を決めているわけでもないし、
景色を楽しむ余裕すらない。

次はどの山に登ろうなんて夢すら描けない。
ただ、一歩ずつ足を動かすのみ。


これは登山の話ですが、
このような仕事の仕方をしている人が
社会の中に多くいます。


時代は変わって、
個人のアイデアを必要としている企業も多くありますが、
未だに旧体制の企業もあります。


旧体制の企業とは、
決められた仕事をただ馬車馬のようにこなしてくれる社員を求める企業です。


先日、ニュースで自殺した社員の特集を見ました。


その会社では社員をまさに馬車馬のように扱っていて、
夜に眠るなとまで命令していたそうです。
5分ごとにラインで起きているか報告させるという異常さ。


でも、考える力を奪われてしまうと、
そのようなことにも従ってしまうマインドが出来上がってしまいます。


余計なことを考えず、
社長の言うことをこなしていればいい。
人間ではなくロボットを扱うかのようです。


未来は個人の突出したアイデアが求められる社会です。

それなのに教育に目をやれば、
未だ個性尊重と言いながらも、
個性よりも協調性。
個性よりも従順さが求められる教育がはびこっています。


さらにきついのは、
先生ですら個性を奪われて、
余計な色を出さず、ただ指導要領に、前例に従い、
隣のクラスと歩調を合わせて働けといった学校すらあります。


そのような学校で育った子供たちは、
また、考えずに従うマインドが強烈に身についているので、
変な社長のもとでも歯を食いしばって頑張ってしまいます。


最後に耐えきれなくなって・・・。


もうそんなことを繰り返してはいけない。


日本の未来のために私たちが何ができるのか。
そこを考えて1人1人が「考えて」行動する習慣を身につけないと。


そのためにできる簡単な練習は、
日々流れてくる情報をいったん疑うこと。

本当に?!

たったこの視点をワンクッション入れるだけで、
人の頭は動き出すものです。

Think different


自分の周りからマイナスの情報を取り除く生き方



人間は他人に影響を受ける生き物です。


これは多かれ少なかれ誰にでも共通することだって思います。


例えば、私がアメリカに生まれていたら、
絶対にアメリカ人的な発想になっていたはずです。
顔はアジアでも。


生まれた場所に影響を受けるように
人間は自分がいる場所の文化に染まるようにできています。


スポーツだって、
草野球チームに所属して練習するのと、
プロ野球チームに所属して練習するのとでは、
練習内容以前にモチベーションが変わるはずです。


しかも、デフォルトの練習量すら変わってくるでしょう。


そんなことを踏まえて、
自分が気を付けていることは、
プラスの情報に囲まれるようにすることです。


他人の不幸は蜜の味と言いますが、
ちょっとでも油断していると、
自分の周りにはマイナスの情報が溢れてきます。


テレビのワイドショーを見れば、
マイナスのことばかり。

Twitterでも炎上してマイナスの言葉が溢れています。

Facebookはリアルなんで、
あまりマイナスのことはないですよね。


だから、自分が気を付けるようにしているのは、
Twitterとテレビです。


極力、マイナスの発言をするフォロワーはミュートにしています。
繋がりを切る必要はないですが、
ミュートにすれば、発言は目に入らなくなります。


ワイドショーも自分とは関係ないことは
さらっとタイトルレベルで知るにとどめて、
詳細は追わないようにしています。


例え追ったとしても、
情報を鵜呑みにしないようにして、
事実のみをとらえるようにしています。


朱に交われば赤くなると言いますが、
小さなことですが、
自分に確実に影響を与えるのが情報です。


自分の中に入ってくる情報の質を上げる。


皆さんにもそのことを意識して生活してほしいなって思います。


このTJ☆LifeStyleラボが
質の高い情報を与えている1つの場となっていたらうれしい限りです。

人間のために作ったルールで人間性を失う怖さ



全日本実業団対抗女子駅伝(クイーンズ駅伝)の予選会
「プリンセス駅伝」で岩谷産業の飯田怜選手が転倒。


どうも骨折したとのこと。


約200mの距離をはいつくばってタスキをつなぐ場面が
テレビやYouTubeで流れていました。


美談のようになっていましたが、
私は眉をひそめてしまいました。


スポーツである駅伝にはルールがあり、
そのルールの規定から外れたら失格になります。


だから、誰も手助けできない状態。
さらに、根性を美徳とする競技の特性からか、
誰も棄権を判断することもできず。


アスファルトを四つん這いで全力で進むんだから、
両ひざは血でにじんでいました。


海外ならどうなんだろう。
これは美談で済むことなんでしょうか?


本人の強い意志は美しいです。
個人の判断は尊重されるべきです。
好きでやっていることなんだから。


でも、この好きでやっていることの中に、
過度な責任感も含まれているかもしれません。

これがチームプレーのよいところであり、
悪いところでもあります。


自分1人で競技していたら棄権していたかもしれないけど、
チームプレーのお陰で自分の限界を超えることができ、
圧倒的に成長できた。


そんなことがあります。

でも、そのプレッシャーのために、
選手生命を絶つほどに頑張ってしまう人も
出てくるというマイナスも含まれています。


今回の転倒後の四つん這いは、
果たしてどちらだったのか。
両方含まれたものだったのかもしれません。



それと気になったのが、
この規律、ルールにがんじがらめになった人間性です。


四つん這いになった選手の後ろにぴったりくっついて歩く
運営側の人が映っていました。


おんぶしてはいけないのでしょうか?
肩をかしてはいけないのでしょうか?


待っている選手が戻ってタスキを受け取りにいっては
いけないのでしょうか?


もし競技のわくがなければ、
足の骨を折って、
四つん這いで這う人がいたら助けるはずです。
いや、助けなければならないはず。


それが、「競技」という枠があり、
ルールができると、
人間としての判断より、ルールが優先される。


ここに日本人のどこか怖いところがある気がするんです。


これが間違った方向に使われると、
戦時中の間違った判断にも従う憲兵のような人が
生まれてしまうのかもしれません。


ルールはあくまで運営をスムーズにするため、
選手たちのためにあるはず。

それにも関わらず、
ルールのために、
あんな膝を血でにじませ、骨折しているのに
四つん這いで這わなければならないルールなんておかしいです。


おんぶしてあげたらいい。
前の選手がタスキを受け取りに行けばいい。
ダメなら前の選手がおんぶしてラインのところまで歩いたらいい。
それならしっかりハンディがあって、
他のチームに比べて有利になっていることは無いはず。


たったこれだけの判断ができない状況が生まれてしまうことが
ルールの怖さです。


ちょっと語るのにはデリケートな問題ですが、
ネットニュースで流れる「美談」とは違って、
少し眉をひそめている自分がいたんで考えてみました。


みなさんはどう考えましたか?

自分が【すごい】と思う生き方を自由にしたらいい

自営業をしている。

このことをすごいと言ってくれる人もいるけど、
自分はすごいなんて思ってもいない。


なぜかといえば、
誰でもできるからです。


自営業をして生きる道もある。
雇用者として生きる道もある。

今の自分は過去の自分の選択の結果です。
全くの自由。

自由に生きる


もちろん、発展途上国などでは、
自分で選択できなくて、
生まれたときから生きる道が決まって要る人もいます。


でも、先進国に生まれた自分たちは、
誰からも強制されていなくて、
自由に職業を選べたはず
です。


で、自分で選んだ結果として、
自営業をしているだけだから、
全くすごいことではない
と思うのです。


では、なんですごいという人がいるのか。

自分には絶対にできない
という強い思い込み
があって、
その思い込みがあるからこそ、
自分ができないことをやっている人を
すごいと表現している
のかもしれません。


例えるなら、
自分がイチロー選手を見て
すごいという感覚に似ているのかもしれない。
レベルは全く違いますけどね。


でも、私がイチロー選手のことをすごいというのは、
自分には絶対にできないことだってわかっているからです。


彼のレベルに到達するには、
小学校から頑張り続けている必要があったことでしょう。
だからすごいんです。


でも、自営業ってのは、
今からでもできることです。

今いるところに不満があるなら、
今すぐやめることができます。


家族がいるから、
将来が不安だから、
自分には才能が無いから、
・・・
やらない理由を探せば
私だって探せます。
たくさん理由は出てきます。


それでもやりたいと思うか。

結局、選ばないということは
やりたくは無いということなのかもしれません。


だったら、今生きている場所で
最善を尽くすことだってすごいこと
だって思います。


だから、自営しているからすごい。
雇用されているからすごくない。
そんなことはなく、
誰でもその場で頑張っている人は
すごいんだ
と思います。


ただ、気をつけたいことは、
自分にはできないという思いは、
過去に誰かから植え付けられた考え方であることが多い
こと。


本当にできないのだろうか?
そう思い込んでいるだけでは?
一度疑ってみることも大切です。


和を乱すな。
列を乱すな。
前へならえ。


日本の教育をずっと受けていたら、
自分は他人と違ったことはしてはいけないのでは?
と思い込んでしまって、
自分には枠から出ることは無理だ
って思い込んでも不思議ではありません。


自分の中にもそんな奴隷根性が潜んでいる可能性があるかも
って疑ってみることも必要なことだって思います。


自分がすごいと思う生き方をしたらいいんです。


自由だから。

お受験は否定しませんが、高学歴を色眼鏡で見てはいけない

お受験という言葉がバカにされるような
語感を持ち始めたのは
テレビドラマの影響が大きいのかな。

ある時期から、
お受験に熱を入れすぎる親を
少し斜に構えたようにとらえる風潮ってあったと思うんです。

私個人としては、お受験は全く問題無いと思います。
個人の自由なんで、
やろうがやるまいが、
各家庭が決めたらいいことで、
他人がとやかく言う筋合いは無いです。

私はやらせませんが。

で、お受験を頑張るのは良いとして、
そのまま高学歴になるのも良いでしょう。

ただ、心配なことがあります。

そのような道を歩んできた人の中の
一定数に変わった人格の大人が生まれてくることです。

全員では無いんですが、
テレビの日本最難関の大学を扱う番組の中には、必ずありえないほどの
社会生活に対応できないレベルの人が登場します。

もちろん、テレビ的に面白くするために、そのような人たちを意図的に集めているんでしょう。

自分の大学生活を振り返ってみても、
集めようと思っても、そんな人には出会うことはありませんでした。

ということは、その大学はかなり多い割合で社会に適応できない人材がいるということでしょう。

何か研究の最前線で生きるなら、
それくらいの人の方が活躍できるのかもしれません。

社会に適合するとかは関係なく、
ひたすら解剖学に優れている
なんてこともあることでしょう。

でも、個人的には不安を覚えます。

もし、医者になる人たちであるなら、
技術的に優れているのは大切ですが、
対象を人間として、気持ちある人間として受け止めてくれる人であってほしいです。

官僚や政治家であれ、国の政治に関わる仕事をするのであれば、
社会に適応できる人になってもらいたいです。

他人の気持ちを察することができない人が政治をやればどうなるか。

そのような事例がニュースでバンバン流れてきていますよね。

だから、高学歴ブランドで踊らされている有権者にも問題があるんだろうな。

学歴ではなくて、どんな人間性なのか?
そこが大切になる職業ってたくさんあると思うんです。

お受験街道まっしぐらで生きる生き方だって否定はしません。

でも、その結果として生まれる一定の確率の社会生活に適応できない人には、
国民の健康と安全を守るための仕事にはついてほしくないです。

選ぶ側が最難関大学卒業者で、
同じ大学の卒業生を選ぶ。
そんな高学歴というパスポートでスルーできてしまうシステムがあるなら、
そこを改善してほしいです。

また、私たち選ぶ側も、高学歴だけで色眼鏡で見て選んでしまわないように、
しっかりと人物を見極めなければなって思うのです。

SNS依存という病


Facebookを開く回数は多い方なのかな。


ブログを書くたびにリンクを貼るようにしていますし、
有益な情報を得るためにも使っています。


著名人だけではなく、
一般の人たちの投稿も目に入ってきますが、
何かちょっと強迫観念気味になってしまっている人も
いるような気がします。


楽しそうにふるまっていなければいけない。
楽しそうな自分を発信しなければいけない。


発信が重荷になってしまっては
何のための発信なのかわかりません。


そんな状態は自分ではコントロールできていないので、
もう病に近いのかもしれません。


もし重荷に感じているなら、
ランチ、カフェ、旅行と
そんなに発信しなくて何も人生は変わりません。


これは自分にも当てはまっていて、
投稿が義務感になっていてはいけないんだと思います。
楽しい気持ちの時にストップしたらいいんです。


自分はブログに読者を誘導して、
そこからTJブリッジにもつなげていきたい
って意図をもっています。

その意図から外れそうになっているとき、
自分を戒めるために、このような思いが湧いてきます。


今日はその思いをシェアしようと思って書いてみました。


もし、みなさんがFacebook、インスタグラム、Twitterなどで
疲れているなら、
そんなことのためにストレスなんて溜めなくていいんだって
気づいてほしいです。


義務なんかじゃないんだから、
もっと肩の力をぬいていきましょう。

自然教育に意味があるのか?

自然教育っていう言葉を聞けば、
無条件で良い教育だって思ってしまいがち。


よくあるのが幼稚園の芋掘り。
小学校だったり、郊外学習的なものなら植林、植樹ですね。


これを否定するのって
否定する方がひねくれていそうなんで、
ちょっと嫌な気持ちもあるんです。


でも、考えなければならないのは、
どれほどの効果があるのだろうか?
ってことです。


何か効果があるから、
芋を掘るし、植林もするわけです。


自然の大切さ、生命の大切さ、
限りある資源の大切さなどを学んでほしいのかもしれませんが、
正直、学びになっているのかというと、
やりっぱなしになっていることが多いんじゃないかな。


芋を掘るだけでは学びは少ないのは、
自分の経験を振り返ってもわかります。


確かに芋を掘ったんですが、
それ以上でもそれ以下でもなかったです。


もし、何か学びを与えたいのであれば、
成長のプロセスもすべてやらせるべきです。



作物を育てるのがどれほど大変か。
そこを理解して、ラストに掘ってから食す。


そのプロセスを完結するからこそ、
自然の大切さを学べるのではないでしょうか。


植林だって苗木を植える。
で、後は現地の人にお任せ。
数年後に1回だけ成長した木を
ちょろっと見ても
なんの感動も無いですよ。


企画者のほうが大変だったから、
感動が大きいかもしれません^^;
本当に子どもたちに学ばせたいなら、
苗木を植えるで終わりにせず、
成長のプロセスも経験しないと。


それをする覚悟が無いのに、
何かちょろっとやったつもりを味わうためにやる行動に
どれほどの意味があるのか。


そこをしっかり検証しないと、
もっともらしいことをしたけど、
数年後には記憶に無いってこともあります。


親としても、子供に何か活動させるとき、
自然教育だからと無条件に飛びついても
そこまで効果は無いかもしれないと
冷静に判断することも大切だって思うんです。


ちょっと斜に構えていますが、
何事も一度落ち着いて考えてみる。
それが大切な生き方だって思うんです。

私がお坊さんに祈りたくない理由



お坊さんに祈っている人をタイではよく見かけます。

日本ではめったに見ないんで、
どうしても目がいきます。


私は宗教を否定するつもりもないし
お坊さんに祈っている人も
ありあと思っています。


が、自分の本心としては嫌なんです。
無条件でお坊さんを祈りたくないんです。


別に偏屈な気持ちからではなくて、
自分なりの理由があるのです。


お坊さんが仏さんの教えを体現するために
頑張っていることは素晴らしいと思っています。

節制をして自分を高める。


お坊さんは仏というイメージを目指して修行しているのであって、
決して仏さんそのものではないはずです。


なのに、なんでその人に祈らなければならないのかが
ちょっとわからないのです。


タイだから行事としてお寺に行くことが多いです。
私もその時は祈ります。

でも、お坊さんに祈っているのではなくて、
その先にある仏さんに祈る感覚です。


仏さんがいるのかもわからないんですが、
良心の根っことでもいったらいいのかな。
何か人間の善悪を決める根っこにあるようなものを
具体的にしたのが仏像だと勝手に解釈しています。


そこに対して祈っているようなイメージです。


もし、そのお坊さんの中に、
もう悟りを開いていて、
仏さんと一緒の力を持っているのであれば祈りたいと
思うのでしょうが、
その人について何もわからない状態で、
妄信的に祈ろうという気持ちにはどうしてもなれないのです。


そして、もう1つ考えていることがあります。


それは、私たちの今の生活だって、
かなり苦しみ、悩みに満ちた、
すごい修行の場だという自負があるからです。


こうやって、家族を養い、
自営業として、会社を経営していくことは、
かなりの精神的な負荷がかかっています。


毎日、子供と夫との間で精神的に負荷がかかっている
主婦の方だって相当な精神的な修行の場で生きているはずです。


そのような負荷から決して逃げることなく、
お寺の外で一生懸命に生きている人は
果たして価値として下なのか?


私は決してそうは思わなくて、
むしろ社会、経済の中にもまれて生きる人の精神性は
かなり高まっているのではないのかな?
と思っているのです。


だから、決して自分の能力は
お坊さんより下ではないという考えがあるからかもしれません。


と書いてみて、
けっこう自分は頑固な性格なのかも(;^_^A
なんて思いつつ、
お坊さんに無条件に祈りたくはない理由について書いてみました。


決してお坊さん全体に対して言っているのではなくて、
本当に力のある、尊敬できる人は、
お坊さんであれ、お坊さんでなかれ、
私にとっては同じ尊敬の対象だということです。


肩書、立場的なもので、
何も考えることなく祈るということは
あまり好きになれないということです。


本当の頭の良さとは?

本当の頭の良さ


お役所に務めるのは
頭が良くてはならない。


が、実際にお役所に行ってみると、
マニュアルに従った行動しかとれない人が多くいるようです。


ただ、そのマニュアルが複雑で、
複雑なマニュアルを扱うのが
頭が良いと言われているようです。


でも、本当にそれって頭が良いのでしょうかね?

私は頭の良さって違うと思うんです。


臨機応変に対応できて、
人の感情がわかる人こそ頭が良いって思うんです。


六法全書を丸暗記している人が頭が良いなら、
レインマンの映画に出てきた主人公こそ
頭が良いとなるはず。

でも、彼は本当に頭が良いか?
と言われたら、頭が良いというくくりでは表現が難しく、
記憶力が良いということだけが当てはまるはず。


頭の良さと記憶力の良さは、
完全一致するのではなく、
頭の良さのごくごく一部として記憶力があると思います。


例えば、こんなことがありました。

パスポートの更新で、
タイの日本大使館に行ったときです。
身内が身体障害で、大使館に行くのが難しい。

だから代理申請をしました。

受理はできたのですが、
受け取りは本人が来なければならないとのこと。


マニュアルだからです。


でも、介護が必要な人がいて、
その理由もはっきりしていて、
身内だと確実にわかっていても、
ルールだからだめだということです。


こういうのは頭が悪いと思います。


頭が良いというのは、
自分で考えて判断し、
その判断に責任をもつことができる人です。


マニュアルに従うだけなら、
人工知能でいいんです。
タッチパネルでもいいです。


人間でなければならないのは、
臨機応変の「情」がかかわってくるからです。


「情」を排除するなら
ロボットで構わないはずです。


人間としての頭の良さは、
臨機応変にある
と思います。


曖昧なところです。
だから数値化しづらい。

でも、そこを知っておかないと、
頭の良さを間違えて、
未だに偏差値を追い求める教育に走ってしまうのです。


本当の頭の良さについて、
個人個人が、
こんな人は頭が良いなぁ・・
と数多くの事例を通して考えてみることが大切になります。


それが我が子への教育にも伝わって、
社会をより良くするヒントとなるはずです。

所属する価値観に染まって生きるということ

タイで生活しているとイスラム教の方が多くいます。
私はイスラム教には詳しくないので
よくわからないのですが、
女性が黒い服に見を包み、目だけを出しています。


好き好んでやっている服装なんでしょうか?
よくわからないのですが、
好きで着ているのであれば、
いろいろな価値観の人がいるんだなって純粋に思います。


人は生まれたときには、
まったく同じように真っ白な価値観だったはず
です。


いつのころからか、
女性は黒い服で目だけを出す
という価値観になっていったのでしょう。


それは自分の内側から生まれたのではなくて、
所属する環境から与えられた価値観であるはずです。


内側からであれば、
みんな同じになるという奇跡的なことは
確率的にあり得ないと思うんです。


世の中にはいろいろな価値観があって、
不思議だなと思うことがたくさんあります。


例えば、ネクタイ。



なんなんでしょうか。
私は自営業になってから、
もうネクタイはしなくなりましたが、
社会人のころはよく不思議に思っていました。


なんでこんな細い布切れで首を締めなければならないのだろう。

しかも、長さの調節が面倒だし、
首周りも苦しいし、
無駄な出費になるし。


生まれたときは裸だった人間も、
それぞれ生きる世界で、
不思議な価値観に染まって、
徐々に自分の色というより、
所属する社会の色に染まっていく
んですよね。


と言いつつも、
自分だって、未だにワイシャツに黒いスラックス。

本当に着たい服ではありませんが、
社会人という共同体に所属しているから、
いちおう合わせてはいる
のです。


どこまで合わせて、
どこからは合わせないか、
その境界線って難しいなって思います。


本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない。

本当の美は生まれるもの


本当の美は生まれるもので、
つくり出すものではない。
By柳宗理


素敵な言葉だなって思ってここにメモしておきます。

なんで素敵な言葉だと感じたかというと、
「生まれるもの」というところです。


変に外に答えがあるように
ファッション雑誌やら、
ブランド品を追い求めてみたり、
整形してみたり、
そんなところに美は無いというのは、
私も個人的に考えていたことなんです。


もっともっと生き方を洗練させる。
それは自然と人と違ってくるものです。


そうやって自分の中にある生き方の軸のようなものをしっかり見つめて、
研ぎ澄ましていけば、
自然とその人だけの「美」が出来上がる
のかなって思うのです。


全くイメージの世界ですが、
本当の美は生まれるものだという言葉には、
自分の心の中にある価値観を
ぴったり来たのは事実なので、
TJ☆LifeStyleラボには残しておきたいと思いました。

自分の指針を再確認させてもらえるような言葉でした。

世界基準で戦うのではなく、日本の良さを熟成させる

タイにいて日本を見ていると、
本当に素敵だなって思います。

生き方では無いですよ。

四季があることです。

四季があるから、
食べ物が豊富です。

そして島国だから海洋資源にも恵まれています。

食べ物が豊富。

そして、禅という思想は
世界から注目されています。

文化的にも成熟しています。

それにもかかわらず、
人々の心は豊かではないようで、
年間自殺者の多さは世界でもトップクラスです。

自分も日本で働いていたとき、
とても苦しい思いを味わっていた記憶があります。

でも、こうやってタイから日本を眺めてみると、
日本ってすごく恵まれた環境にあって、
その環境を十分に活かしたら、
国として回るんじゃないかなって思うのです。

他国との経済競争で勝つことも大切なのかもしれません。
私は経済学など細かく学んでいないのでわからないですが、
勝たないといけないんでしょうか。

国内にある資源をもっと有効活用して、
国内産業を規模を大きくするのではなく、もっともっと熟成させるような方向で進んで行けば、
日本という国は、世界の中で、
新しいモデルを示す国になれるような可能性を感じます。

自分の国の良さを忘れて、
他国のつくったグローバルスタンダードという土俵で戦うから苦しいのだって感じるのです。

まるで、相撲の力士が総合格闘技のルールで戦うようなものですかね?なんのこっちゃ^^;

でも、日本には日本の良さがあるんで、
そこをもっと熟成していくような方向で
国が発展していってほしいです。

規模は小さいけど、なんか深みがあって尊敬できる国。

日本がそんな国になってくれたら嬉しいです。

そのためにはまず自分が深みある生き方をしないとなとも思うのです。

自分はこうだと決めつけて生きるな!

自分を決めつけて生きる


自分はこういう人間だ。
○○さんらしい。

そんな言葉に踊らされていると、
人間が小さくなってしまうと思います。


会社にはある一定の業務がありますが、
もっともっと改善していこうとするのが成長する会社です。


違うと思えば朝令暮改で変えるのが、
経営者の役目です。


そうやってどんどん成長していくのが会社であるなら、
個人だって同じはずです。


自分はこんな人間だ。
こういう人間だって固定してしまうと、
それ以上の成長が無くなってしまうのではないでしょうか?


まるでマニュアル業務と一緒です。

ただ、今の自分を繰り返していれば良いなんてつまらないです。


自分は変わるかもしれない。
昨日と今日は違うかもしれない。
今日と明日は違うかもしれない。


そんな期待があるから、
人生は面白い、自分という人間に興味がわくんだと思うんです。


自分の腕だって、爪だって、
細胞と言われるものはなんだって、
徐々に死んでは生まれ、
新しい自分に変わっています。


なのに、自分は変わらないと
変に固定してしまうなんて
つまらないことだって思うんです。


人間は細胞レベルで変わる。


だったら、自分という人間だって、
どんどん成長して変わっていく。


そう考えながら日々を過ごした方が
成長するんだって思います。

個性的でありたい人へ

個性的でありたい

個性的な人でいたい。
そう考える人がいるし、
自分も若い頃って個性的でありたいなって考えたことがありました。


でも、歳を重ねるに従って、
個性的ってのは自分から求めるようなものではなくて、
自然と他人から言われるだけのもの
なのかな
って思うようになりました。


というのも、自分の考え方、趣味嗜好なんて、
どんどん変化しているからです。


一瞬で変わることもあれば、
何年もかけて徐々に変わってくるものもあります。


だから、個性ってのは、
どんどん変化していて、
固まったようなものじゃない
って考えています。


ただ、自分と他の人が考え方が違うことは理解しているし、
見た目も違うことも理解しています。


では、自分は個性的かと言われたら、
それは当然個性的だし、
世の中の誰もが個性的だって思います。


昔、ガングロなんてあったけど、
あれが個性的か?と言ったら、
けっこうな人数いたんで、
別に個性的じゃないかもしれません。


ただ、目立っていただけで、
むしろメイクを落とした顔の方が
他人との違いがはっきりして個性的だったかもしれません
よね。


だけど、ガングロにすることで、
そのチームというか仲間に所属することになるから、
ちょっと個性的じゃなくなっているんじゃないかなって思います。


個性的ってのは、
いつも変化しているし、
その変化を自分で知っていて、
その変化に自然と従っている状態を言うのかな。


どうなんでしょう?
ただ、個性的って言葉に逆にとらわれて、
自分の自由が奪われているようなら、
そんな言葉はいらない
って思います。


小川君らしいよね。
なんて言われて、
へへへなんて笑っている場合じゃなくて、
そんなのは他人が見た自分の超一部分です。


その期待に固められて、
その期待に沿って生きるようになってしまったら、
それは個性的じゃないです。


だから、個性的ってのは、
個性的という言葉を完全に忘れて、
自分が好きなように生きること
なんじゃないかな。
そんなことを考えていました。

正解を求めるのではなく、最後は自分で考える


子育ての記事でも書きましたが、
日本人気質なのか「正解を求めすぎる」
ことが世の中には溢れているような気がしています。
褒めるのが苦手な親へ


何が良くて、何が悪いのかという情報を
自分の判断材料を増やすため、
判断精度を高めるために手に入れるならOKだって思います。
そのためならノウハウ本も武器になります。


でも、妄信してはいけないんです。


自分で考えるのが面倒だから、
どこか権威ある人が言ったことに従ってしまう。


これは日本人が小さいころから
鍛え抜かれた気質なんだって思います。


目上の人には従え。
先生の言うことは絶対だ。
和を乱すな。
前へ倣え。


テレビでは、これをやれば叩かれる。
これをやったら神対応。塩対応。


そうやって、どんどん自分で考える力が
奪われているんだって思うんです。


何が正解かなんて、
その時々の状況なんて水の流れのように
1人1人違うんだから、これと言った正解があるわけがありません。


正解かもな?という方向性があるだけです。


だから、あまり妄信し過ぎず、
最後は自分の価値観を信じて行動することが
大切だって思います。


そうやって成功したり、失敗したりしながら
自分の価値観を修正していくことが
生きるってことじゃないかな。


シンプルに自分らしく生きるとは?

目の前にある財布のように生きる。


自分が使っている財布は
黒い革の二つ折りの財布。
財布の様に生きる


特別な装飾があるわけでもなく、
余計な大きさではなく、
小さすぎるわけでもなく、
ちょうど良いと思っているので
長年使っています。


自分は考える生き方として、
ちょっとした見本のようなものなのかな。
なんて考えています。


多分、この財布を作った会社は、
ずっとこの形じゃなかったはずです。


デザインに凝った時期があり、
大きさにこだわった時期があり、
素材にこだわった時期があったはず。


で、長年使い続けて、
試行錯誤をしていくうちに
今の形に収まったのかな。


なんて勝手に考えています。
生きるとはこれと同じプロセスだって気がしています。


毎日の生活を丁寧にする。
そして必要だと思うことと、
不必要だと思うことを分けていく。


徐々に自分の輪郭がはっきりしていく。


最終的に行き着いた形が
本来の自分
のような気がしています。


その姿とはいつ出会えるのか。

死の直前なんでしょうか。

たぶん一生無理なんでしょうね。


でも、追い求めてみるのも
面白そうです。

最近、そんなことをちょっぴり考えています。

人生の後半戦のために自分という田畑を耕すこと

人生後半戦のため自分という田畑を耕す

若い時に一生懸命に田畑を耕していた人は
人生の後半で収穫期を迎えているのでしょう。


自分は41歳になり、
そこそこ昔耕した田からの収穫を得ています。


でも、耕し方が甘かったという自覚があります。


だからこそ、
今、収穫をしながらも田畑を耕す時間を
少しでもとるように頑張っているつもりです。


でも、仕事をしていると、
言い訳がましいですが、1日があっという間に終わってしまう。


あぁ、今日は耕せなかったなぁ。
なんて日も多々あります。


若い人がこれを読んでいたら、
本当に伝えたいことがあります。


「今のうちに自分という田畑を
 しっかり耕しておいた方が良いよ」と。


人生も後半戦になり、
仕事が軌道に乗ってしまうと、
本当に耕す時間がとれないから。


自分への戒めの念も込めて書いています。


まだまだ人生は後半戦が始まったばかり。
これからもっともっと耕していきたい
って思うんです。


自分の若い時の甘い耕し方では
一生分の収穫量は期待できないと考えています。


みなさんの田畑はどうですか?
まだまだ収穫可能ですか?

それとも耕す必要がありそうですか?

ちょっぴりの勇気が人生を変える

少しの勇気がでなくても、
時間は待ってくれません。


気がついたらタイムリミットになっていることもあります。

人生のタイムリミット


人生は、ちょっぴり長いからそのことに気づきにくい。


先日、息子の空手の試合があった。
試合は一分半。


ちょっとの勇気が出せないでいると
一気に残り30秒。


そこで初めて焦ることになるのです。


焦ってした行動は失敗することが多い。
失敗したくないから冒険もしづらい。
臆病になるから失敗しやすい。


残り時間がたっぷりあるうちに
ちょっぴり勇気を出すだけで
人生は大きく変わります。


失敗しても落ち着いてやり直しがききます。


では、自分は41歳です。


もう遅いのか?


いや、60歳の自分から言わせれば、
まだまだ青二才でしょう。


60歳の人も90歳からみたら
青二才でしょう。

だから、
勇気を出すのに遅すぎるというのは無い。


みなさんは勇気を出せずにいる何かがありますか?

本当に買いたいのではなく、買うという行為が楽しいだけ



消費っていうのはスナック菓子を食べるのと同じで、
おなかが空いているから食べているんじゃないって人もいます。


食べる瞬間の快感のために食べている。
食べるという行為そのものを楽しんでいる。


だから満腹であっても止められない。


快感を持続させるためには、
もちろんお菓子を袋が空になるまで
食べ続けなければならないわけです。


物を買うのも同じ仕組みです。


家には服が十分すぎるほどあります。
でも、新しい服が欲しい。


買うという行為が楽しいから。
選ぶという行為が楽しいから。


今欲しいものは、本当に必要な物なのか?


それとも、ストレスなどを抱えている自分が
買うという行為をして発散したいだけなのか。


物を買うときの大切な視点だなって思いますね。


どうしてそんなことを急に思ったかというと、
1日1つ断捨離をしているからです。


見渡してみると、
驚くべき品物の数。
細かいものを合わせていくと本当に驚くべき数ですよ。
机の上だけでも恐ろしい数でしょうね。


だから、買うという行為を抑えることが
生活の質を高めるって感じているわけです。

他人と比べても比べなくても良いという生き方

他人と比べる比べない。


日本人の傾向として
右へ左へと大きく偏りがちだってことは
知っておいたほうがいいのかな
って思っています。


子育ては
褒めるのがいいのか?
叱るのがいいのか?
なんてどっちかに偏る。


で、最近、気になったのが、
人と比べるな!
という言葉です。


人と比べる、比べない
の二択じゃなくていいんじゃないかなって思うんです。


比べてもいいし、比べなくてもいい。
両方合わせ持った価値観でもいい
んだって思います。


特にスポーツをやっている人なんて、
人と比べてなんぼですよね。

人と比べることを否定しちゃったら、
競技そのものが成立しないってこともありそうです。


ただ、何のために比べるのか?
ってことが大切なんだと思います。


自分との違いを明らかにして、
何か自分にしっくりくる技術だったり知識だったりがあるか?
という視点で比べること。


それなら比べることには
とても良い意義があるのかなって思います。


そして、比べる必要が無い部分も、
比べることによって徐々にわかってくる
のかな。


何を言っているのか伝わりますかね^^;


要するに右に左に極端に行くんじゃなくて、
中庸という中間地点があってもいいのかなということです。


他人と比べてもいい。
他人と比べなくてもいい。
そんな生き方がちょうど良いと思うのです。

自分らしいシンプルさ



ここ数年はシンプルなデザインの物が好きです。


世の中もそのような流れが少しあって、
アップル製品がシンプルさが特徴で売れていますよね。


先日樹木希林さんがお亡くなりになりましたが、
生き方が注目されていました。


リユースということで、
着物から洋服を作ったりする無駄の無い生き方が
かっこいいって注目されていました。


あと、ミニマリストなんて言葉も少しずつ浸透していますね。


で、私が考える歳をとるというのは、
日常生活を繰り返しているうちに、
徐々に自分にとって必要なものと
不必要なものが見えてくること。


必要な物、不必要な物が見えてきたら、
不必要なものを削ぎ落としていく。


すると、自分という人間は、
自分という側面では
どんどんシンプルになってくるんじゃないかなって思うんです。


だから、
自分が理想とする生き方としては、
自分の色のシンプルさを研ぎ澄ませていく
といった感じです。


ちなみにこれは何も考えない
ルーティンをこなすだけの単純さとは違いますよ。


自分の人生を考え抜いた上で
やっとのことたどり着くところのシンプルさです。


みなさんはどんな自分のシンプルさを洗練させていきますか?

子供たちの夢YouTuberは現実的にどうなのか?



子供たちの中では
将来の夢がユーチューバーというのが
時々あがってくるんですが、
最近のユーチューバー界隈の流れとしては、
かなり仕事として厳しくなってくるのかなって思います。


というのも、
まず広告料が低いです。
1再生0.05円くらいです。


100万再生しても5万円です。


素人が100万再生とるなんて
本当に難しいです。


で、広告料が発生するためには
チャンネル登録者数が1000人を超えていないとダメです。


登録者数が1000人超えていなければ、
いくら再生されてもダメ。


かなり厳しい戦いです。


さらに、本田翼さんのYouTube進出が話題になったり、
キングコングの梶原さんがユーチューバーになると
話題になったりと、
今までテレビ業界の人とYouTubeなどの
ネット配信ってのは、分けられていたのが、
どんどん境界線が無くなってきています。


素人と芸能人の戦いになったとき、
素人はより一層厳しくなってくるでしょうね。


同じようなネタであれば、
素人より芸能人の方が事務所のバックアップもあるから、
より面白く演出できるでしょうから。


YouTubeはこれからもなくならないメディアでしょうし、
自分たちが手にしているデジタル機器は、
もっと進化して、気軽に動画をアップできるようになるでしょう。


でも、それを仕事にできるか?と言えば、
かなりの狭き門だということを
いつの日か子供たちにも教えてあげた方が良いのかな
って思います。


試しに自分もYouTubeに音声をUPしてみました。
家の中で話していたんで、
ちょっと小さい声になってしまいました。

子供たちのYouTuberという夢は現実的にどうか?


生まれ変わったらと考えるなら今からやる。

生まれ変わったら〇〇になりたい。
〇〇したい!


きゃぴきゃぴした声が聞こえてきそうなフレーズ。


本当に生まれ変われるのかはわからんのですが、
自分は無宗教なんで、
生まれ変わりって信じていません。


もし生まれ変わりがあったとしても、
結局覚えていないんだから、
覚えていないことは、
感覚としては無いことと同じです。


生まれ変わりは無いという前提で、
もう一回あのフレーズを。


生まれ変わったら〇〇になりたい!
〇〇したい!


本気で言っているなら、
今の人生の中で生まれ変わるしかないんですよね。


人生は80年程度。



一回しかないんだから、
生まれ変わったら・・・と思っているなら、
時間が許す限り実行してみたらいいんだって思います。


想像して楽しむレベルの話だったら
別にいいんでしょうけど、
もし心のどこかに本当に〇〇したかった・・・
という思いがあるなら、
人生のラストで後悔の念に押しつぶされないためにも、
できる範囲で実行した方がいいです。


もしダメだったら?
ダメだったら嫌じゃん。


確かにダメだったら嫌です。


でも、やってみないとダメかどうかすらわからないです。


ダメなら嫌でしょうが、
数年後は気持ちはスッキリしているはずです。
そして、新しい〇〇が見つかっていることでしょう。


でも、やらなかったのなら数年後も
同じことを考え続けていることでしょう。


どちらが良いか。
自分はやってみることを選んで生きてきました。
今のところ後悔はないです。

子どもたちが家畜化される?

人工知能の発展って
私達が想像している以上に速く、
2040〜45年あたりには、
人間の知能を超えるって議論もあるくらいです。

で、それに関わってなんですが、
子どもたちの学習環境にも人工知能が
徐々に入ってきていて、
ある学習塾では、子どもたちが間違えた問題を解析して、
苦手な問題を提示してくれるってものもあるようです。

それを見ていて、
世の中便利になったもんだなぁと
考えつつも、ちょっとした映像が浮かんでくるんですよね。

牛さんです。

牛は野生にいるときは、
のびのびと生活して、
自分たちで危険を回避しながら、
生きていたわけです。

でも、ある時期からほぼ完全に家畜化され、
自分たちの能力の一部だけを伸ばすようにされたんです。

この前牧場に行ったときなんて、
雌牛は身動きできない狭い空間に
とじこめられて、乳に管をつけて、
ただひたすら牛乳を絞られていましたよ。

で、餌もそのミルクに適したものを
必要最低限与えられているんです。

危険は全くありません。
ただただ自分の仕事を全うしています。

そんな状態と未来の子どもたちが
若干かぶるところがあるのかな
って思うんです。

確かに学力の一部として
テストがあります。

でも、それって人間としての学力の
超一部分だけを測定しているにすぎないんです。

その超一部分のために
ミスした問題を分析して、
すぐに苦手を提示してくれる
というのが、
妙に親切過ぎやしないか?
と思うんのです。

確かにミスはしない方が良いんでしょうし、
苦手は減らすに越したことはないです。

が、その方法として、
自分で自分を十分に客観しすることなく、
自分に足りないところは何かを自ら考えて、どうしたらいいのか?
と試行錯誤する力を奪うことは、
トータル的にプラスなのか?

と疑問が浮かんでくるんです。

社会に出て必要な能力って
テストの学力だけじゃないですからね。

ひたすらPCの前で問題とにらめっこして、
PCの中の人工知能が分析してくれて、
適したとされる提示された問題を解く。

これって完全に人工知能に
家畜化されつつあるように見えるんです。

人間が未来で生きる上で、
どんな能力が必要になって、
能力だけじゃなくて、
マインドもどう高めていく必要があるのかってことも
考えていかなきゃらないんじゃないかなって思うのです。

みなさんはどう思いますかね?

小学校で公式の成り立ちを考えるから苦手な子が生まれる

前々から思っていたんですが、
学校で教える人って基本的に勉強できるんですよね。


で、教科書を書いている人も勉強ができるんです。


その2つが合体して授業をしたときに、
勉強が苦手な子がさらに苦しむ展開になることがあるんです。


円の面積なんて、
半径×半径×高さ÷2でいいんですよね。


とりあえず、これを覚えて計算でいないと
何もスタートしないんです。


で、この円の面積が使えることで、
これから中学、高校、大学と
より高度な思考が求められる段階で
思考力を磨くことができるんです。


小学校の段階は上位の学校で
思考力を高める学習をするための
道具を習得する段階とも言えるんです。


でも、小学校の先生は
この場所で完結して思考力を高めようとするから
円の面積を小難しくして、
苦手な子が道具を習得できないで学年を上がってしまう
ということが起こってくるんです。


円の公式をどうやって求めるのか
ということに時間を割けば割くほど
苦手な子供たちは苦しみ、
得意な子たちは塾で習っているから、
既存の知識を披露する場所になってくるって側面があるんです。


とりあえず、
小学校の段階は、
小難しい公式がどうしてできたのか?
というところに価値を置きすぎないで、
問題をしっかり解けるようになるところに
もっと時間を使った方が良いって思うんです。


小、中学校は道具を手に入れる段階。
その道具を使って高校で既存のモノづくりをして、
大学になって新しいモノを発明する
といったイメージでしょうかね。


そんな感じで学校教育をとらえています。