お坊さんに祈っている人をタイではよく見かけます。
日本ではめったに見ないんで、
どうしても目がいきます。
私は宗教を否定するつもりもないし
お坊さんに祈っている人も
ありあと思っています。
が、自分の本心としては嫌なんです。
無条件でお坊さんを祈りたくないんです。
別に偏屈な気持ちからではなくて、
自分なりの理由があるのです。
お坊さんが仏さんの教えを体現するために
頑張っていることは素晴らしいと思っています。
節制をして自分を高める。
お坊さんは仏というイメージを目指して修行しているのであって、
決して仏さんそのものではないはずです。
なのに、なんでその人に祈らなければならないのかが
ちょっとわからないのです。
タイだから行事としてお寺に行くことが多いです。
私もその時は祈ります。
でも、お坊さんに祈っているのではなくて、
その先にある仏さんに祈る感覚です。
仏さんがいるのかもわからないんですが、
良心の根っことでもいったらいいのかな。
何か人間の善悪を決める根っこにあるようなものを
具体的にしたのが仏像だと勝手に解釈しています。
そこに対して祈っているようなイメージです。
もし、そのお坊さんの中に、
もう悟りを開いていて、
仏さんと一緒の力を持っているのであれば祈りたいと
思うのでしょうが、
その人について何もわからない状態で、
妄信的に祈ろうという気持ちにはどうしてもなれないのです。
そして、もう1つ考えていることがあります。
それは、私たちの今の生活だって、
かなり苦しみ、悩みに満ちた、
すごい修行の場だという自負があるからです。
こうやって、家族を養い、
自営業として、会社を経営していくことは、
かなりの精神的な負荷がかかっています。
毎日、子供と夫との間で精神的に負荷がかかっている
主婦の方だって相当な精神的な修行の場で生きているはずです。
そのような負荷から決して逃げることなく、
お寺の外で一生懸命に生きている人は
果たして価値として下なのか?
私は決してそうは思わなくて、
むしろ社会、経済の中にもまれて生きる人の精神性は
かなり高まっているのではないのかな?
と思っているのです。
だから、決して自分の能力は
お坊さんより下ではないという考えがあるからかもしれません。
と書いてみて、
けっこう自分は頑固な性格なのかも(;^_^A
なんて思いつつ、
お坊さんに無条件に祈りたくはない理由について書いてみました。
決してお坊さん全体に対して言っているのではなくて、
本当に力のある、尊敬できる人は、
お坊さんであれ、お坊さんでなかれ、
私にとっては同じ尊敬の対象だということです。
肩書、立場的なもので、
何も考えることなく祈るということは
あまり好きになれないということです。
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