今を生きる

ベランダに植物ってありますか?

植物がある方はその植物をよく観察してみてください。

枯れた葉がありませんか?

実は、私はベランダの枯れた葉に気づかないことが
ちょくちょくあったのです。



その時感じたことは、毎日見ているようで、
「見えていない」んだなってことです。


見えているけど見ていない。


なんとも変な言葉ですが、
見ていないから葉が枯れていることに気が付かないんですよね。


これってベランダだけの話じゃないと思うんです。

日頃から将来のことや、
過去におきたことなどばかり考えることが当たり前になってくると、
今、視界の中にあるものに心が向いていないことがあるんです。


これは夫婦ならパートナーに対しても起きています。

親子なら子を見つめるときにも起きています。

仕事でも同じことでしょう。


将来のことを考えることは大切ですし、
過去のことを悔やんだり、
懐かしんだりすることもあるでしょう。


でも、それが行き過ぎてしまうと、
今を見つめることができなくなってしまう。


それでは、生きている意味が半減しているような気がするんです。


みなさん、
今を生きていますか?

地球に住めなくなるレベルの森林破壊に対して私たちが考えるべきこと



ブラジルの熱帯雨林が減少しているって聞いたことありますよね?

もちろん、問題になっているってことも知っていますよね?
自分も教師として森林破壊については知ってはいたんですが、
今日、目にしたニュースに驚きました。


たった1年で、ブラジルの熱帯雨林は
サッカー場が何面分無くなったと思います?

恐ろしいですよ。

100万面分だそうです。
なんじゃそりゃ。

ってくらいイメージ湧きませんよね?

イメージが湧かないほどのすさまじい広さの森林が
たった1年で無くなっているということです。
しかもブラジルだけですよ…(+_+)


ちょっと数がデカすぎるんで、
小さくしてみますね。


1日だと2740面が消えています。
1時間だと115面です。

1分だと2面。





1分にサッカーコート2面分の森林が消えているということです。
今もです。
しつこいですが、ブラジルだけです。


このことは、地球温暖化への影響もあるし、
もちろん生態系だって崩れます。

その生態系の中に人間も入っていて、
私たちが地球で生きていくことすら難しくなる未来は
かなり近いのかもしれませんね。


だからイーロンマスクは
火星移住計画も進めているんでしょうね。


単純にダメだダメだと言っても止まらないのが森林破壊。

だって、私たちも間接的に影響していますからね。

肉類を多くとる生活をしていますが、
その肉類を育てるためには相当な面積の牧場が必要で、
その牧場を作るためには、森林を切り開く必要があります。


あと、電力も私たちは自由に使っていますが、
貧困層が多い熱帯地域では、
未だに薪を燃やしていたりしますからね。


薪を燃やすなよって言っても生活がかかっているんだから仕方がないです。


だったら電気通せよ!って話ですが、
電気は効果なんで、貧困地域には普及しづらい現状があります。


しかも、その貧困の原因に間接的に私たちの生活も
影響していますからね。


低賃金で働かされて作られたものを
大量消費して生きているのが私たちなんで、
そこも改善していかないとこの問題は解決しないですよね。


私たちができることは、
自分の生活の中のムダをどれだけ減らせるか。

大量消費に歯止めをかける
本当に必要な物は何か?を見極める思考。


贅沢だってしたいのが消費社会の現代ですが、
欲望をどこまで抑えることができるかってのも
大切な考え方でしょうね。


消費社会ってのは消費を前提に豊かさが定義されているので、
なかなか難しいところですが、
難しいからと言って、今の生活を続けていたら、
どう考えても環境は破綻しますからね。


完全に修行僧になったり、
ビーガンになったりというのは極端すぎるんで、
自分ができる範囲で生活を改善してみるって視点
1人1人が今すぐもった方が良いでしょうね。

昨日の夜ご飯を忘れるような食べ方でいいの?



食事をいただくとき、
みなさんはどんな様子で食べていますか?


私はテレビを見る時間は食事の時だけと決めているんで、
食事とテレビはセットになっています。


ただ、昔こんなことがあってからは気を付けるようにしています。


「昨日の夜ごはんって何食べたっけ?」


いろいろ考えることがあって、
どうも作っている人にも食材にも申し訳ないような気持ちが湧いてくることがあったんです。

何かロボットがエネルギーを吸収するような食事の仕方になっていたような気がしました。
人間らしさを捨ててしまっているような。


それ以来、テレビを見ながら食事をとることは
時間の関係上、どうしても自分には必要なんですが、
よく噛むようにしています。

じっくりと噛む。


こうしていれば、食事にもしっかり意識が向かうので、
昨日何食べたっけ?といったような
食事を無視するような食べ方にはならないで済みます。


さらに良く噛むことで、
胃や腸への負担も減るはずですし、
100ある食事の栄養のうち100近く吸収されるような気もします。


良く噛まないで食べると、
消化されないまま最終的に出てしまうというような
イメージがあります。
100ある栄養のうち60のみしか吸収できなかった!
みたいな。


だから良く噛んで、
すでに吸収しやすい状態にしてあげるってのは
とっても大切なのかなという気がしています。


まったく根拠はないイメージの世界ですが(^-^;


良く噛むことで、その日の食事をしっかり味わうことにつながり、
それは昨日何食べたっけ?といったロボットのような食べ方から
離れる第一歩だと思っています。


もし、昨日何食べたっけ?ということが多い方は、
良く噛むということを意識してみてくださいね。

風邪を早く治すために風邪薬を飲んではいけない!



風邪を引いたときにできるだけ早く治せることに
越したことはないですよね。


その時の行動で間違った行動があります。


風邪を引いたらすぐに薬局に行って、
咳止めや解熱の薬を買って飲む人っていますよね?
総合風邪薬というものです。


風邪を引いたらすぐに薬を飲む。
これが間違った行動なんです。


私はかつてマツモトキヨシでバイトをしていたことがあって、
お客さんに熱を下げる薬はどれがいいですか?
なんて質問されて薬をお勧めしていましたが、
自分では絶対に薬は飲みませんでした。


学生のころから今まで徹底して風邪薬は飲んでいません。
それで風邪はすぐに治ってしまいます。


なぜ、風邪を引いたら風邪薬を飲んではいけないか?
それは人間の免疫機能の邪魔をしているからです。


まず、鼻水を止めたがる人がいますが、
鼻水っていうものは必要があって出ているんです。


体の中の風邪のウィルスを外に出すために
鼻水が出ています。
咳も同じです。
喉のウィルスを外に出すためです。


ウィルスを外に出すための行為を
強制的にストップする薬を飲めば、
風邪の治りは遅くなります。
当たり前ですよね。


解熱はどうか。


風邪のウィルスは熱に弱い。
だから熱が高いところではウィルスの活動が鈍くなり、
免疫細胞に退治されやすくなります。


だから体は熱を上げて、
免疫細胞を応援しているんです。


それにも関わらず
一生懸命に熱を下げる薬を飲んで、
ウィルスを応援しているという…


よっぽどひどいときは別ですけど、
通常の風邪であれば、
風邪薬を飲まない方が体がウィルスを退治するのに
プラスに働いているということです。


ちなみに風邪のウィルスは薬では殺せませんよ。
みなさんが飲んでいる薬はウィルスを殺すのではなく、
症状を緩和させる薬ですからね。


自分や家族の人が風邪を引いたら
むやみやたらに風邪薬を飲ませないのが
TJ☆LifeStyleラボのおすすめです。

明日あなたの命があると保証できますか?


タイトルに書きましたが、
これは自分にとって大切な考えです。


命なんて言葉を使うと、
何をだいそれたことを・・・
とか、
何かこわいことを・・・
と敬遠する人は多くいます。


でも、命について考えることは、
人間が生きる上でとっても大切なことだって思っています。


ここで質問です。


明日って当たり前に来ると思っていますか?
本当に当たり前に来るんですか?


質問されなければそんなことは考えることもなく、
普通に1日を終えて、
また明日目覚め、という日々を送っていることでしょう。


でも、もしかしたら事故にあうかもしれないし、
何かしらの突発的な病に倒れる可能性だってありますよね?


だから、明日が確実にあるとは言い切れないのが
人間の命だということです。
とっても当たり前なことです。


しかし、この当たり前を当たり前だと思えないところに
人間のある意味適当なところが垣間見えてきます。
その適当なお陰で毎日をシリアスにならなくて済みます。



しかし、私は明日は確実に来るという保証はないということを
改めて自分に言い聞かせるように
今日を生きようと思っています。
シリウスになったっていいと思っています。


明日終わるかもしれないから
今日を出来る限り後悔ないような1日にする。



明日は当たり前に来ないかもしれないという
ちょっと人生に対して
ゆるんだ紐を締めるような気持ちが大切だって思うのです。
人生の密度を濃くするために。


緩んだ顔で生きるも、
張りのある顔で生きるのも自由。


あなたはどっちがいいですか?
というシンプルな問いを
自分にぶつけてみてください。

人生を浪費を防ぐ服を断捨離するTJ基準



家のクローゼットの中にたくさんの服が溢れていると、
毎日洋服を選ぶときに迷いが生じます。


わずかな迷いの時間であっても、
ちりも積もれば山となるという言葉の通り、
年間で通してみたら相当大きな時間の塊になります。


服を選ぶのに毎日3分かかっていたとして、
3分/日 × 365日 = 1095分(約18時間)
の消費です。


これってすごくないですか?
1年間の中で人生の18時間を服を選ぶことだけに使っているんですよ。


クローゼットの中がすっきりしていたら、
こんなに時間がかかることは無いでしょう。


そのためには服を断捨離する必要があります。


基準としていろいろあることでしょうが、
2年間着なかった服は何も考えずに捨ててしまいましょう。


これからも着ません。
ただ、冠婚葬祭用の服は別ですよ。


それ以外の服で2年間着るチャンスが無かった物は
全て捨ててしまいます。
勿体ないと言っても使っていなかったんだから
勿体ない以前の問題です。


本当に必要になったら、
自分が好きな服を買えばいいんです。
毎日着たくなる服を1着買えばいいです。


2年間着なかった服は
チャンスが巡ってきても、
もう魅力が薄れているでしょう。


というか、魅力が薄れているから2年間も着なかったはずです。


ということで、
2年間着ることの無かった服は断捨離してしまい、
毎日の服選びにかかる時間を減らすこと
TJ☆LifeStyleラボではお勧めします!

シンプルに生きる

シンプルに生きる

シンプルに生きる。


これは自分がとっても好きな言葉ですし、
そうありたいというモットーでもあります。


情報過多。


今の自分の生活の周りには情報が溢れかえっています。

特にSNSのお陰で
はじめて知ることがあり、恩恵を受けている反面、
知らなくても全く良かった情報に時間を
奪われていることも多々あります。


だからこそ、
情報を意識的にシャットダウンするくらいの気持ちをもっていた方が
精神衛生上良いのかなと感じています。
それくらいの意識でも情報は多く入ってきますし。


さらに、家の中もシンプルにしたいなって考えています。


家の中が雑然としていると、
心も雑然としてくるような気がします。


集中力がそがれてしまったり、
本当に大切なことを考えにくくなってしまったりするような気がするのです。


物がたくさんあるような
ガチャガチャしている場所で生活していると、
そのガチャガチャを心は努力してシャットアウトしようとします。


すると、心の平常な状態がシャットアウト状態へと変わってしまい、
気づく力、感性が鈍化してしまう。


だから、気づき力を鈍化させないため、
お寺はシンプルで清潔感がある状態に保っているのだと思います。


別に宗教をしているわけではありませんが、
日本のお寺に行くと心が穏やかになるのは
そのためかなと感じるのです。


シンプルに生きる。


自分が大切にしていることです。

悩む時間より行動することに時間を使う


人々を観察していると、
本当に多種多様な悩み事があるようです。


家族の健康、支払い、人間関係・・・


日々、いろいろな不安を抱えながら生きています。

まるで、使わない荷物をカバンにぎゅーぎゅう詰めにして歩いているようなもの


使わない荷物は下ろして歩いた方が楽なのに。


悩みごとについて、
ため息まじりに思いを巡らせるだけでは、
ただの心労しか生み出しません。


悩みについてどうせ考えるなら、
建設的な思考であるべきです。


問題となることの原因を見つめて、
その解決のために今何ができるのか?


そして、考えたことについて行動する。
その行動に時間を使うことこそ大切なんです。


悩むことに時間を使っても
時間だけが過ぎていきますが、
何も現状は変わらないのです。


今何ができるのか?
これから何ができるのか?


もっと解決に向けて思考を使い、
行動に時間をかける。

だからこそ、悩みは解決されていき、
より良い人生に近づいていける。


この考え方が生きる上で大切だって思うのです。


精神的に未成熟な社会



人間は他の動物と比べると頭が良いですよね。


頭が良いことって素敵なことではありますが、
そのおかげでねじ曲がった出来事もあるのかな
って気がしています。


それは、人間性が未熟であっても、
飛び級するように幸せを手に入れることができる仕組みを作った
ということだと思います。


例えば、
精神年齢が幼く、
ネットで他人のことを批判ばかりするような人であっても、
株式でお金を右から左、左から右へ動かすだけで
数億円を儲け、あとはマンガばかり読むなんて生活を送ることができます。


酷いいじめをする人であっても、
偏差値が高いというだけで難関校へ行くことができます。

人間性なんて無視してただ猛烈に勉強だけしていれば、
その中からやがて官僚が生まれます。
そして国の政に関わることすらできてしまいます。


今ある社会の問題の多くの根本を突き詰めてみると、
この精神的な未熟さがあるにも関わらず、
実際には身分不相応な立場は環境を手に入れることができる
仕組みにあるのかもしれないなと思うのです。


もっと精神的に成熟した人こそ、
国の政をしてほしいです。


もっと精神的に成熟した人こそ、
価値があることなんだという視点を
社会全体がもつような仕組みをつくらないと、
頭でっかちで精神未成熟な人がはびこることになります。


そんな国の未来は決して明るい物だと言えないはずです。


精神的な成熟を目指すことが
何よりも大切なんだって思います。

教える側、批判する側の道徳性を養うことが先決

批判が世の中には溢れている。


テレビを見ていてもネットを見ていても
批判を聞かない日は無いと言ってもよいですよね。


でも、どうでしょう。
心に響く批判ってありますか?


自分は単なる情報としてしか聞こえてこない批判が
たくさんあるような気がしてなりません。
批判のための批判ってやつです。


どうしてだろうかと考えてみると、
その批判している人の人物にあるのかもしれないなって
思いに至りました。


論理的に筋が通っている。
白黒はっきりしている。
しかも白という事実を認めるに値する論拠がある。


それでも、それを語っている人の道徳性に
矛盾を感じると人はどこかきな臭さを感じるのではないでしょうか。


また、きな臭さを感じる観察眼を
個々人がもっていなければならないと思います。


世の中、筋だけで割り切れるほど
簡単じゃないです。
論理的に正しくても人情的に間違っていることだってあるはずです。
人間が決めたことは完璧ではないから。


でも、若い人達の中には、どの分別がまだ付かず、
歯に衣着せぬ物言いをする人に、
論理的にズバッと物を言う人に
カリスマ性を感じて慕う人も出てくるようです。
もちろん若くなくても分別が付かない人もいますが、
比較的若い人に多いようです。


でも、透き通った目で見るならば、
批判している人の道徳性に賛同できるかどうか
ってのはとっても大切な判断材料だと思うのです。


そうでないと、世の中は批判であふれかえって、
ギスギスしてい生きづらい場所になってしまいます。


批判のための批判だけをするなら誰でもできる。
スネ夫だってできる。
スネ夫に失礼か(^-^;

だけど、それじゃいかんと思うのです。


教え諭すことも同じでしょう。
教え諭したいなら自分が体現できていないと
響かないんです。


簡単な例え話で終わります。

教師として子供に「思いやりが大切だよ」と言うなら、
教師自身が思いやりを体現できていないといけないと思うのです。
それを感化というのだと思います。

自分にとっての幸せって何かを考えてみる

自分にとっての幸せとは?

そんなことを考えたことってありますか?

なんでこんなことを考えたのかというと、
テレビで芸能人のファッションチェックというのをやっていて、
全身で数億円を使っている人がいて、
それをもてはやす人がいたことがきっかけです。

そんな全身を数億円で包むことは、自分にとっては幸せを感じるのか?
というと、全く感じないと思います。

その人たちにとっては幸せであっても、
自分にとっては幸せでは無い。

ということは、幸せってのは金額では無いということです。

でも、ふと気を抜くと、
自分にとっての幸せというものを考える暇すらなく、社会から与えられている幸せの定義を自分のものとして生きてしまっていないだろうか。

高い車に乗るのが幸せ。
高い家に住むのが幸せ。
高い飯を食べるのが幸せ。

本当にそうなんだろうか?

別に人の幸せは幸せでいいんだけど、
みんながそれを目指したら、
きっと世界は悪い方向に進んでしまうと思う。

地球の資源には限りがあるのは事実です。

もっともっともっと、の先には終わりがありません。

行き着くところは数億円のコーディネーションでしょうか。

そんなことを地球の人たちが目指したら、
地球の資源というものは、あっという間に無くなってしまうのではないでしょうか。

フェラーリは燃費が悪い車です。
でも、そのエンジン音がかっこいい。
燃費の悪さなんて関係ない。

確かにそうかもしれませんが、
本当にそれでいいのかなって思います。

自分の幸せのためなら、
地球環境なんてどうでもよくて、
自分一人ぐらい燃費が悪かろうが関係ない。

そう考える人が増えれば増えるほど、
地球の寿命は少なくなっていく。

だからこそ、
メディアに踊らされることなく、
自分にとっての幸せってなんだろうか?
と冷静に見つめてみることが大切なんじゃないかなって思います。

本当にテレビでもてはやされているような生活を自分はしたいのだろうか?

ひと切れ5000円もするカツサンドを食べたいのだろうか?

もっと幸せの定義って金銭的なものではなく、内面的なものにあるのではないかな?

そんなことを考えてみるのも
良いのかなって思います。

今日1日を大切に生きる

今日1日を大切に生きる


人生は1度きり。
そんなことは誰もが知っていて、
知らない人はいないです。


でも、これほど価値を見誤られている言葉もないのかな
って思います。


人生は一度きりだと思ったら、
毎日を大切にしようと思うのが当然の流れだけど、
人は、自分も含めてそう簡単には意識が変わりません。


でも、テレビを見ていても、
不治の病にかかった人は人生が濃くなっている
というのは事実なようです。


不治の病で死期が明らかになって初めて
人生の時間の大切さを痛感する。


それではちょっと遅いですよね。


不治の病だろうが、健康だろうが、
死ぬのは確実であって、
長さが問題なのかもしれませんね。


長いから意識から死が遠のいて、
別に普段は考える必要のない現実味の無い問題になっているのです。


ただ、40歳を越えて思うことは、
平均寿命まで本当に生きられるのか?
という疑問です。


よくよく考えてみたら、
当たり前なことですが、
自分が83歳くらいの平均寿命まで生きられる保証なんて
どこにもないんですよね。


明日死ぬってこともありえることです。
1か月後かもしれません。


そう考えてみると、
1日の大切さがちょっと増してくるような気がするんです。


もしかしたら、残り少ないかもしれない人生です。
そう思って今日も一日、濃く大切に生きていきましょう。

身近な人と自分を比べて落ち込んでいる、嫉妬している人へ。

人と比べて落ち込む


身近な人と自分の社会的な環境の違いに落ち込む人がいます。


あの子はまた海外旅行に行ったのか。
あの人の家族は仲が良さそうだ。
あの人はまた昇進したのか。


ビル・ゲイツと自分を比べて落ち込むことは少ないでしょうが、
身近な人と自分を比べて落ち込んでいる人は多くいます。


私もかつてはそんなことがありましたし、
今も全く無いとは言えません。


ただ、比較して落ち込むことは限りなく少なくなったのは事実です。


他人と自分は完全に環境が違いますからね。
生まれた条件も違えば、
思想、信条も違います。


同じである必要が無いし、
幸せの質に上下なんて無いって思います。


まず比べて落ち込んだところで仕方がないですからね。


それよりも今を大切にすることの方が
何百倍も大切なことです。


今、幸せというか、充実していると自分が感じるように
行動することが、人と比べてエネルギーを消耗するより
大切な事です。


人生は一度しかないんですから、
偶然身近にいる人と比べている暇があるなら
自分がやりたいことをやった方が良いです。


みなさんはどうですか?
身近な人と比べて落ち込んだり、
嫉妬したりしていませんか?


上には上がいますよ。
仕方がないです。


それより、今自分ができることに集中していきましょう!

不安の中を生きるのではなく、今を生きる!

今を生きる


私の年齢に近い人たちなら記憶に残っていますよね。
ノストラダムスの大予言w


1999年の火の月でしたっけ?
恐怖の大魔王が降ってくるとか
そんな内容だった気がします。


笑い話みたいですが、
どうせ地球が滅亡するなら、
もう何もしたくないと考える人がいたり、
不安の中で過ごした人もいるみたいです。


ノストラダムスの大予言だから笑い話になりますが、
こんなことが日常生活でも起きてしまっている人がいたとしたらどうでしょう。


ノストラダムスの大予言を笑ってはいられなくなります。


病気になったらどうしよう。
失業したらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
失敗したらどうしよう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう・・・


そうやって、
心配ばかりして過ごしている人と
ノストラダムスの大予言を恐れてびくびくしている人と
根っこの部分は同じなのではないでしょうか?


ノストラダムスの大予言であれ、
病気の不安であれ、失業、失敗の不安であれ、
不安に時間を使うのはもったいないです。


だって、まだ来ていないことのために
今の時間を消費してしまっているんですよ。
一度しかない今日の今を消費しているんですよ。


本当にもったいないことだって思いませんか?


今という時間はどんどん過ぎていく。
今の時間を味わうことが人生を味わうことです。


それなのに、今という貴重な時間を
全く起こってもいないことを不安に思うことだけに消費する。
浪費と言ってもいいでしょう。
バカげていますよ。


確かに備えることは大切ですよ。
備えあれば憂いなしです。


でも、ある程度備えたなら、
後は野となれ山となれです。
未来なんて誰にもわからないんです。


だから私は今を楽しむことが
とっても大切だなって考えながら過ごすようにしています。


みなさんは今を生きていますか?
不安の中に生きていますか?


やりたくないことを止め、やりたいことをやる勇気



毎日がつまらない。
月曜を迎えるのがつらい。
金曜が来るのが楽しみ。

終業時間が来るのが待ち遠しい。
始業時間が来るのが苦しい。


そんな声が日本中に溢れています。
もしかしたら世界中なのかもしれません。


自分もそんな時期があったので、
その苦しみの中にいる人たちの辛さが
多少はわかる気がしています。


私はその生活が嫌で飛び出して今があります。


やりたくない生活を維持するために
やりたくないことを続ける。


この言葉は逆にしても成り立ちます。


やりたくないことを続けているから、
やりたくない生活が維持されている。


だから、私は飛び出しました。

やりたくないことを続けている限り、
やりたくない生活は続いていきます。


その生活を維持するために、
またやりたくないことをするという日々が
洪水のように流れていく。


その流れに身を任せていると
また今年も紅白歌合戦かぁといった感じで
1年が過ぎていきます。


だからこそ、
やりたくないことを止める勇気が必要なんだと思います。


そのためには、自分が心からやりたいことって何なんだろう?
と自問自答する時間を欠かすことはできません。


自分がやりたいことがあるからこそ、
やりたくないことを止める勇気が湧いてくるからです。


誰だって生活があるから、
やみくもにやりたくないことを止めるわけにはいかない。
でも、その生活を続けていった先に見える景色が
自分が好きな景色ではないとわかっているところに辛さがあります。



思い切って道を変える勇気。
それが人生を変えてくれる。


私は身をもって体験したので
このことを伝えずにはいられません。


確かに偶然のやりたいことができているのかもしれませんが、
偶然であれ、必然であれ、
やりたくないことから離れたことで
次の出来事がやってくるのは事実。


その出来事が幸運にもやりたいことである可能性はゼロではない。
またやりたくないことが現れる可能性だってあるけど、
その時はまた手放せばいいだけです。


人生なんてあっという間に過ぎていきます。
どうせ終わりがあるなら、
やりたいことをやった方が良い。
そう思うんです。


自分の人生を生きること


ワイドショーやら、ネットやら、
他人の噂でもちきりです。


ちょっとでも気を抜くと、
確かに他人の噂話というのは蜜の味というように
面白いものもありますよね。


ジャーナリストが捕まったとか。

二世タレントがどうだこうだとか。


ただ、自分が気を付けたいなって思っていることは、
他人を主人公にするのではなくて、
自分が主人公になるということです。


他人の人生が波乱万丈で、
それを座席で口を開けて眺めるような生き方はしたくない
ということです。


人生のプレイヤーは自分であって、
傍観者であってはいけないと考えています。


他人の波乱万丈な人生を楽しむ暇があるなら、
自分が波乱万丈な人生を歩み、自分で楽しむ。


そっちの方が人生が面白いんじゃないかな。


確かに自分で波乱万丈に生きることは危険が伴います。


だからこそ
プロセスをやるのではなく、観客としてみる人がいるように、
人生でも他人の波乱万丈を観客としてみる方が良い
と思う人もいるのかもしれません。



でも、自分の人生は1回だけです。
ただ傍観者として人生を終えるのは
本当にもったいないです。


ただ真実を言うならば、
傍観者的な人だってマインドが傍観者なだけであって、
実際には競技場の中にはいるんですよね。


そのことに気づかず、
競技場で立ち尽くし、
他の走る選手を見ている状態なんです。


せっかく競技場で立っているんだから
自分が走らないと、、、終了のホイッスルが鳴ってしまう前に。


自分で選んだ道を成功にするのは自分次第

公務員をやめてバンコク日本人学校の教師になる。

バンコク日本人学校の教師をやめて、
塾を立ち上げる。

自分は大きな決断を何個もしてきました。

教師という公務員をやめるときには、
かなり否定的な声もありました。

後ろ髪ひかれる思いがなかったといえば嘘になります。

でも、こう考えるようにしています。

人生は何かを選べば、何かを手放さなければならない。
選んだ方を正解にするのは自分次第。

これは自分の信念です。

そう思わないと個人事業主はやってはいけません。

後ろを振り返っている暇なんて無いです。

前を向いて、自転車が風で倒れないように漕ぎ続ける必要があります。

大変でしょ?

そう言われたら、大変ですと答えるしかないです。
でも、そこには変な悲観的な響きはありません。

なぜなら大変なんてのは覚悟の上だからです。

大変では無い仕事なんて無いとも思っています。

みんなそれぞれの場所で大変なんでしょう。

だから、大変を理由にしてくじけるような思いはありません。

自分が選んだのだから、
大変だろうが大変じゃなかろうが、
選んだ道を「それで良かった」と心の底から思えるように努力を積み重ねる。

それが大切なのかなって思うんです。

成功者の足を引っ張るのは、天に向かって唾を吐くようなもの

足を引っ張り合う。

ネット、テレビの情報を見ていると、
日本では成功者を羨むのと同時、
いや、それ以上に足を引っ張る情報が多いと感じます。

世界と比べてどうかはわかりません。
でも、人間なんだから、
どの世界も同じ程度で、
成功者や有名人を叩いたり、
足を引っ張ったりしているんでしょうね。

でも、日本人として、
日本の有名人や成功者を叩いたり、
足を引っ張ったりするのは、
天につばを吐くようなものだって思います。

というのも、
その成功者がいるおかげで、
世界の中で日本の経済力が高い状態であったり、彼らの税金のおかげで、
日本の国内が豊かだったりするからです。

また、有名人がいるおかげで、
日本の世界的な評価が高まっているという一面もあります。

むしろ応援した方が良いのかなって思うくらいです。

もちろん、自分がそれだけ成功したり、有名になれるに越したことは無いんですが、
できないからと嫉妬して足を引っ張るような行為をするのはおかしいんです。

誰もが成功者になれるわけが無いし、
誰もが有名人になれるわけでは無い。

だけど、チャンスはある。

だから、彼らを応援しつつ、
自分も頑張るというのが正解なのかなって思います。

自分たちは日本からかなり恩恵を得ています。
パスポートは世界的に強いです。

公共機関は相当に高レベルです。

国の力を支えているのは、国民全員ですが、
その中でも高額納税者は、かなり負担してくれているのも事実。

不正は正していかなければならないのですが、
不正しているわけでもなく、
成功している人まで叩いたり、足を引っ張るようなマイナスの情報を広めるのは、自分の首を締めているようなものです。

そう考えると、
変な嫉妬心は消えていくのかな。
それが自分にとって健康的な生き方になるなら、良い考え方だと思いませんか?

【ハロウィン騒動】ルールが無いなら必ず破る人は現れる



ニュースでハロウィンで渋谷で軽トラを倒す人々や、
道頓堀から川にダイブする人々、
交差点で危険運転する車などの報道があった。


「警察が止めるも・・・」
なんて枕詞のようについていたけど、
いつもこの言葉を聞いて疑問をおぼえます。


警察が止めるなら本気で止める。
止めないなら余計なことはしない。


もっと行動をはっきりしないと。


止めるのであれば、
法的な拘束力がないと。
ただの注意勧告なんて聞かない。


危険を承知でやっている人が
注意勧告ごときでストップするわけがないです。


法的に禁止されているから止めるというのであれば、
法を破った人たちをその場で強制的に現行犯逮捕できるような
仕組みを作らない限り、
この暴動は毎年起こる。


あとからテレビでぐちぐち言っても
あれば法的には認められているんだから
いいですよね?
で終わりです。


法的に認められていないなら、
もうすでに止められているはずです。



コメンテーターが
「あれはダメですよね。」
「おかしいですよね。」

なんて言葉を並べていたけど、
そんなことは誰もがわかっていることです。


「変なことだからやめましょう。」


そんな呼びかけで止める人たちではないことは
誰もがわかっていることなんじゃないかな。


それとも暴徒化した人たちを
テレビで扱って視聴率を稼ぐことができ、
街は汚れるけど、
近辺の商店の売り上げはあがっているから、
心のどこかではハロウィン様様だと思っているのかもしれない。


繰り返しになりますが、
ハロウィンの暴動が本気で嫌で、
本気で止めたいのであれば、
とても簡単で、法的に罰則を明確にして、
破ったら現行犯逮捕したらいいだけです。


ただ、その現行犯逮捕の基準は繊細な部分で、
単純に権力者の横暴にも見えてしまうことが無いように
しないといけない。


このようなシンプルなことをやらず、
何となく情をからめて口だけで批判をしつつ、
でもどこかでOKサインも出している。
そんな曖昧さが日本の良さなのかもしれませんが・・・