教える側、批判する側の道徳性を養うことが先決

批判が世の中には溢れている。


テレビを見ていてもネットを見ていても
批判を聞かない日は無いと言ってもよいですよね。


でも、どうでしょう。
心に響く批判ってありますか?


自分は単なる情報としてしか聞こえてこない批判が
たくさんあるような気がしてなりません。
批判のための批判ってやつです。


どうしてだろうかと考えてみると、
その批判している人の人物にあるのかもしれないなって
思いに至りました。


論理的に筋が通っている。
白黒はっきりしている。
しかも白という事実を認めるに値する論拠がある。


それでも、それを語っている人の道徳性に
矛盾を感じると人はどこかきな臭さを感じるのではないでしょうか。


また、きな臭さを感じる観察眼を
個々人がもっていなければならないと思います。


世の中、筋だけで割り切れるほど
簡単じゃないです。
論理的に正しくても人情的に間違っていることだってあるはずです。
人間が決めたことは完璧ではないから。


でも、若い人達の中には、どの分別がまだ付かず、
歯に衣着せぬ物言いをする人に、
論理的にズバッと物を言う人に
カリスマ性を感じて慕う人も出てくるようです。
もちろん若くなくても分別が付かない人もいますが、
比較的若い人に多いようです。


でも、透き通った目で見るならば、
批判している人の道徳性に賛同できるかどうか
ってのはとっても大切な判断材料だと思うのです。


そうでないと、世の中は批判であふれかえって、
ギスギスしてい生きづらい場所になってしまいます。


批判のための批判だけをするなら誰でもできる。
スネ夫だってできる。
スネ夫に失礼か(^-^;

だけど、それじゃいかんと思うのです。


教え諭すことも同じでしょう。
教え諭したいなら自分が体現できていないと
響かないんです。


簡単な例え話で終わります。

教師として子供に「思いやりが大切だよ」と言うなら、
教師自身が思いやりを体現できていないといけないと思うのです。
それを感化というのだと思います。

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